ふと蘇る記憶
―――― ふと、何かを思い出すことってないでしょうか?
とある方から、才能の見つけ方についてこんなアドバイスを受けました。
「小さい頃、大人に注意されたことは何? それがあなたの才能かもしれない。」
この言葉にそっと背中を押され、記憶を辿ってみたのです。
すると、幼稚園の頃のお遊戯会のシーンが、ふわっと浮かび上がりました。
柔道の演目を選んだ私
当時男勝りだった私は迷わず、柔道着を着用してお遊戯をする演目を選びました。
でも先生から、別の演目に変えられてしまったのです。。。
「女の子は女の子らしく。」
なぜか当時の私はそんな風に受け取ってしまいました。
言葉尻だけで捉えると「注意」されたわけではないけれど、
私はその“訂正”を、「注意された」そのような形で受け取っていたのだと思います。
思考ではなく、感覚を信じる
こうして自然に蘇った記憶は、思考で導き出したものではありません。
「これは注意されたのではないから違う」と、頭で打ち消すのではなく──
心が拾った小さなサインを、大切にしてあげたい。
言葉尻にとらわれず、自分の内側から出てきたものを、
もっとやさしく受け止めていいのだと思います。
50年越しの笑いと俯瞰
ふと気づけば、もう50年近く経っていました。
それでも私は、「勝手に変えられていた」と被害者みたいな気持ちも持っていたことに、
思わず笑ってしまいます。
でも今、俯瞰して思うのです。
先生も、両親の気持ちを考えてのことだったかもしれない。
きっと「かわいい姿を楽しみにしている両親」を思ってのことだったのかも。
そう、先生のことは大好きで、卒園してからも手紙のやり取りをしていたほどで。
今思うと「あの先生が変な意図で変えることは、しないよな」という視点にも立てる。
でもその瞬間は
ただそんなふうに受け取ってしまっていたのだなと。
そう受け取った当時の自分も、先生の立場にも思いを馳せられる今の自分も、
やさしく抱きしめてあげたいなと思います。
自分にオッケーを出す
「自分にオッケーを出す」って、
完璧じゃなくてもいい。
誰かを責めなくてもいい。
もっとイージーモードで生きていい。
そう、自分にそっと許可を出してあげましょう。
私の才能って・・・
じゃあ、ここまで内観してきた上で、結局、私の才能って何だろう?と問いかけてみました。
すると、ふっと浮かんできたのは、私が「LGBT婚」をしているということ。
男の子の演目なのに、なんの迷いもなく手を挙げたあの行動は、性別という枠を超えて、
魂のつながりでパートナーシップを築いた「型にとらわれない感覚」とリンクし、
これこそが、私に宿る才能のひとつかもしれない──そんな気がしています。
破天荒にも見えるかもしれないけれど、枠を超え、新しいカタチを信じて飛び込む勇気。
それが、私自身を生かす力であり、これから誰かの希望にもつながるかもしれない。
まだ言葉にしきれない部分もありますが、
こうして少しずつ、自分の才能を感じ取り、社会とどう結んでいくかを探る旅。
そのプロセスを、これからも楽しんでいきたいと思います。
皆さんも、ふと蘇る記憶から、小さなヒントを受け取ってみてくださいね。
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